下野薬師寺とは

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下野薬師寺とは

創建は天武天皇白鳳8(680)年、天皇の勅願により建てられました。同時期に建った奈良の薬師寺と区別するため下野国の薬師寺は下野薬師寺と呼ばれています。暦応2(1339)年、足利尊氏により寺名が安國寺に改称されました。平成29(2017)年、本堂・山門・庫裏・本尊並びに仏菩薩の修理(平成の大修理)を機に、平成30(2018)年、寺名を下野薬師寺に戻しました(寺名復古)。

下野薬師寺の変遷

 

下野薬師寺創建


下野薬師寺が建立されたのは、天武天皇の白鳳8年(680年)といわれています。皇后(後の持統天皇)がご病気になられたため、薬師如来のご威徳をもって病気平癒を祈念するために勅願により建立されました。祚蓮上人が下野国のこの地を選び、伽藍配置の図式を奏上したと伝えられています。(写真資料提供 下野市)

日本三戒壇の建立


下野薬師寺が東国仏教文化の中心として特に隆盛をほこるようになったのは、天平宝字5(761)年に鑑真和上によって戒壇院が建てられてからです。奈良の東大寺、筑紫の観世音寺と、それに下野薬師寺を合わせて日本三戒壇といわれています。東山道足柄以東坂東10カ国の僧侶となる者は、すべてこの下野薬師寺で修行し、授戒をしなければならない定めになっていました。(写真資料提供 下野市)

道鏡禅師、別当として着任                                                                  宇佐八幡宮神託事件の後、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)が死去すると道鏡禅師は後ろ盾を失い失脚。宝亀元(770)年に造下野国薬師寺別当(総責任者)として着任しました。2年後に死去、庶人として葬られました。

下野薬師寺の伽藍配置


大正10年3月3日、内務省から指定された史跡の面積は、7町3反4畝15歩となっています。昭和41年より、発掘調査が行なわれ、その結果、下野薬師寺跡の広さがほぼ確認されました。それによると南北330メートル、東西240メートルにわたって堀がほられ、その内側に土塀がめぐらされていました。その境内の中に南門・中門・五重塔・東西と中央の三金堂・講堂などが中軸線上に南面して建てられ、中門と講堂とを結ぶ廻廊があったことが明らかになりました。(図案資料提供 下野市)

下野薬師寺衰微
寛治6(1092)年の「東大寺文書」の中の薬師寺住僧慶順改案には下野薬師寺の衰微した様子が記されています。おそらく国家の保護も失なわれ、堂宇など荒廃の一途をたどっていったものと思われます。

下野薬師寺復興
慈猛上人は奈良唐招提寺で律学を学び、高野山で密教を修めると、建長6(1252)年下野薬師寺に入寺しました。衰微していた伽藍を復興し途絶えていた授戒を再興しました。下野薬師寺中興の祖といわれています。

寺名の改称
暦応2(1339)年、足利尊氏は幕府を開くと国ごとに安國寺を建てました。下野国では新たに寺院を作ることなく下野薬師寺を修理し利生塔を建てて安國寺と改称しました。

安國寺焼失
元亀2(1570)年、小田原の城主北条氏政・氏直父子が下野国に出陣し、小山・薬師寺・結城付近に陣をしき、下妻の多賀谷氏の城を攻めましたが、結城の援軍に破られ薬師寺に退却して安國寺に入りました。時おりしも大風雪であったため、飢えと寒さに耐えられず近くの民家に火をかけて暖をとりました。その火が安國寺に燃え移り、七堂伽藍をはじめすべての建物が焼失したと伝えられています。

薬師寺縁起成立
天正2(1574)年、兵火により焼失した下野薬師寺の歴史を後世に残すため当時の住持晃栄により書かれました。

薬師堂(本堂)と戒壇堂の再建
慶長年間(1596〜1614)年の頃、薬師寺村は秋田藩佐竹家の飛び地でした。佐竹家家老渋江内膳政光により、薬師堂(本堂)と戒壇堂が再建されました。

薬師堂(本堂)の倒壊
明治35(1902)年、台風のため本堂が倒壊しました。3年ほどかけて使える古材を活用して再建されたのが現在の本堂です。

現在の下野薬師寺

下野薬師寺の寺域                                                                                                                                 

紫色の範囲が現在の下野薬師寺の寺域

現在の宗教法人薬師寺(通称下野薬師寺)は国指定史跡の遺跡の中心に位置しています。境内は約10,000㎡、山門、本堂、戒壇堂などを構えています。 (図案資料提供 下野市)

平成の大修理と寺名復古
平成29(2017)年より、庫裏・山門・本堂、本尊ならびに諸仏の大修理を行いました。これを機に平成30(2018)年、寺名を安國寺から創建当初の下野薬師寺に戻しました。また、この事業を記念して、奈良唐招提寺より鑑真和上御廟の霊土をいただき、宝塔を建て奉納しました。

戒壇堂(六角堂)の修理と鑑真大和上像ならびに丈六釈迦如来坐像の制作が完成。
令和2年より始められた戒壇堂の修理が完成しました。同時に制作していた唐招提寺の国宝鑑真和上像の模刻と丈六釈迦如来坐像も完成しました。令和3年10月10日に落慶・開眼法要を行いました。常に公開していますのでいつでもお拝りができます。

下野薬師寺の寺宝

本尊薬師如来と十二神将

室町期の作、秘仏。ご開帳は33年に一度です。平成の大修理で傷んでいたところを補修し補色しました。

閻浮提金釈迦誕生像

鑑真大和上将来の閻浮提金の釈迦誕生像と伝えられています。5月4日(休日)に行われる降誕会(花まつり)で公開されます。

鑑真和上尊像掛軸

室町期に描かれたもので、嘉永3(1850)年に奈良唐招提寺よりいただいた掛軸です。長年の歳月のため、傷みがひどくお顔の彩色が剥落しています。

慈猛上人尊像掛軸

江戸期に描かれたものです。慈猛上人は、衰微していた下野薬師寺を復興し、また途絶えていた授戒を再興した下野薬師寺中興の祖といわれています。

下野薬師寺縁起

元亀2(1570)年の兵火のために焼失した下野薬師寺の歴史を後世に残すため、天正2(1574)年、当時の住持晃栄により書かれたものです。

紺紙金泥経典

室町時代に書かれた大般若経の一部です。寺宝として大切に保存されてきました。

版木

江戸期の版木です。当時の安國寺周辺の様子や山門、本堂、戒壇堂、他にいくつかのお堂のあったことが分かります。

鑑真和上尊像ならびに丈六釈迦如来坐像

寺宝に新たに鑑真和上尊像と丈六釈迦如来坐像が加わりました。修復の終わった戒壇堂にお祀りしています。

下野薬師寺ゆかりある人物

下毛野朝臣古麻呂
古代下野国の豪族。朝廷と関りが深く、藤原不比等らとともに「大宝律令」の草案者の一人。兵部卿(現在の防衛省長官)、式部卿(文部科学省長官)となり活躍、和銅2(708)年に死去しました。官位は式部卿大将軍正四位下でした。下野薬師寺創建に関わった人物と考えられています。

鑑真和上
鑑真和上は日本律宗の始祖であり、唐の揚州江陽県に生まれました。天皇の招きにより多くの苦難の後に来朝し、日本に戒律を伝えた名僧です。和上は日本三戒壇を定め、多くの僧尼や信者に授戒をし、また唐招提寺を建立するなど、日本仏教史上に大きな足跡を残しました。

道鏡禅師
河内国(現在の大阪府生まれ)。加持祈祷など修法にすぐれ、女帝孝謙天皇の病をなおしてから信任を得て護持僧として勢力を伸ばしました。孝謙天皇が重祚して称徳天皇となると、僧侶ではじめて太政大臣禅師・法王となり、奈良時代の仏教政治末期に活躍しました。神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮神託事件が起き、翌年称徳天皇が亡くなると、道鏡禅師は下野薬師寺に別当として左遷され約2年後に亡くなりました。

勝道上人
芳賀郡山前村高岡に生まれ。27歳の時、下野薬師寺で受戒し鑑真和上の高弟如宝僧都の弟子になりました。5年余りの修行の後、天平神護元年(765年)9月下旬、31歳の時に薬師寺を出て日光山を開きました。

慈猛上人
慈猛流の祖で下野薬師寺長老、字は良賢、空阿上人または留興長老と号しました。建歴元年(1211年)に生まれ、嘉禄2年(1226年)隆澄律師に随って得度し空阿と称しました。奈良唐招提寺に学び律学を究め、さらに高野山に修学し、建長6年(1252年)より下野薬師寺に住すること10有余年、下野薬師寺が真言宗になったのもこの時からであり、その慈猛流は関東一円に広く伝わりました。建治元年(1275年)足利鶏足寺に移住し、同3年4月21日、67歳で亡くなりました。